短編3 人を一番殺した生き物
人間を一番殺している生き物が蚊であることは有名な話だろう。
しかし、あるとき私はこう考えた。殺しているのは蚊ではなく蚊が運んだ病原菌なのではないか?
すると、人間を一番殺している生き物は蚊ではなく病原菌ということになる。
更に考えていると、もう一つ考えが浮かんできた
「そもそも、産まれなければ死ぬことはない。よって、人間を一番殺している生き物は、人間を産んだ人間なのではないか?」
なんだか哲学的な考えになってしまったが、間違っているわけではないだろう。
「人間を一番殺した生き物」は捉え方を一つ変えるだけで蚊にも病原菌にも人間にもなる。
だから、何が一番「正しい」答えであるかはあまり意味を持たない。条件を決めなければ答えはいくらでも出てくる。大事なのはその先だ。
例えば、「人間を一番殺した生き物は蚊である」ことに何の意味があるか、どんな意味を持たせるか考えてみよう。
単純にトリビアとして広まっただけかもしれないが、私はこう考える
「人間を一番殺した生き物は蚊である」
↓
「赤道付近に住む人々は蚊の運ぶ病原菌に対するワクチンを接種できていない」
↓
「募金をしてください」
そう、つまり「宣伝」(プロパガンダ)である。
私は「事実」そのものに意味は無いと思っている。極端な話、人を殺したのが蚊でも人間でもどうでも良い。大切なのはその先にどんなメッセージがあるかどうかを見抜く力だと思っている。
どうやら現代人は論理的に「事実」そのものを導く力を重視しているように感じる。その結果その事実がどういう宣伝効果があるのかを知らずに流される人は多い。
1+1=2が成り立つのは「1の次が2である」と定めたからである。1の次を3にしたり4にしたりしてしまえば1+1は3にも4にもなる。1+1の答えが何であるかはあまり関係ない。1+1が2であるからこそ何なのかを考えなければ1+1は意味のない記号の羅列に過ぎなくなってしまうのではないだろうか?