shinya

ふと思ったことをまとめていきます。

第6回 優生学と資本主義 ~優生学が優勢になるとき~

【1,優生学とは】

優生学とは「優秀な遺伝子」を選別して生殖を促進することで人類全体の遺伝子の質を向上させようとする思想である。そして、現在では「非人道的な思想」や「間違った思想」であるとされることが多い。間違った思想であるのは否定しないが、全てにおいて「非人道的」であるとは言い切れないと私は思う。

例えば特定の人種や障害者が差別されることは非人道的かもしれない。しかし、「劣った存在」が淘汰され「優秀な存在」が優遇される仕組みは「間違った思想」とはいえないのではないか。

【2,優生学と資本主義の共通点】

よく「人類は平等だ」というが、それはどうだろか?

資本主義は儲けられる人はお金持ちになれるし、儲けられない人は貧困に苦しむかもしれない。これは平等なのだろうか?お金を儲ける力は努力だけでは決まらず、遺伝や環境のようなどうしようも無い物にものにも作用される。そのどうしようも無い物で生活の裕福さが変わる資本主義は「人類は平等である」と言える物ではない*1。かといって共産主義が成立したことがあっただろうか。*2

これらのことから人類が皆平等だというのは絶対に成立しないユートピアであることが分かるだろう。

そして、優生学と資本主義には大きな共通点がある。

それは、それぞれの基準で「優秀な物」が優遇されて、「優秀で無い物」が不遇な扱いを受けることだ。だが私は優生学を正しいとは考えないし、資本主義が間違っているとも思わない。

なぜなら、優生学と資本主義には大きな共通点があるが、それと同時に大きく異なる点もあるからだ。

それは、優秀かを判断する「基準」である。

資本主義は「お金を多く儲けられる人」が優秀とされる。お金というのは様々な要因で物の価値が変動するような社会において、ある程度信頼できる安定した価値を持つ物である。(最も、お金どうしで価値が変動するといえばそうなのだが、給料を米でもらうよりは安定しているだろう)つまり、社会の中での価値が「お金」で判断されることで、その評価がある程度正当性のあるものになる。

一方で、優生学は正当性のある評価を下せるだろうか?遺伝子で優秀な人間を判断できるだろうか?そもそも今の資本主義のシステムで社会的に優秀な人間をある程度評価できるのに、優生学を採用する意味があるのだろうか。

【3,優生学が優勢になるとき】

もし、現代社会で優生学を採用する意味があるとするならば、それは「より正確に社会的な価値を判断するため」ではなく、「『優秀であること』の判断基準を変えるため」であると私は考える。

そして、それを支持する人が増えるのは、現在のルールを変えたい人間、もっと言うと、現在のルールで満足できない人間が増えるとき、つまり不景気の時である。

例えばナチ党が権力を握ったのは世界恐慌の影響だと言う考えがある。

だが、優生学では「格差」がなくなるわけではない。基本的なシステムが同じである以上淘汰される存在は必ず出てくる。格差のはかりである「指標」が変わっているだけにすぎない。

【4,格差のない社会を作るためには】

もしも、「格差のない世界」を望むのであれば、優生学を取り入れるのではなく、人口を減らすことを考えるべきだろう。現在の経済格差の原因の一つは「人口が多すぎること」だ。地球で生産できる物やエネルギーには上限がある。その上限の生産量よりも消費量の方が上回っているから格差が生まれるのだと私は考える。

人口を減らすと言ってもジェノサイドをしろというわけではない。子どもの数を一世帯あたり2人以下にすればいいのだ。とはいえ、少子化と高齢化がセットになっている事も多く、途上国では子どもを産むのを制限するのが難しいこともある。だが、先進国の高齢化は移民をもっと受け入れたり、途上国には先進国が支援をすれば良い。もちろんこんなに簡単にうまくはいかないだろうが、いくらでもやりようはあるのではないだろうか?

不足している生産物には電気やガスも含まれる。人口が減れば必要なガスや電気も減る。ガスは単純にco2の排出が減るし、電気も太陽光や風力だけでまかなえるようになるかもしれない。格差問題だけはなく温暖化まで解決できるかもしれない。

...とまあ、私の考えを述べたが、あくまでこれは素人の考察に過ぎない。計算もしてないし、見つけられていない問題点も沢山あるだろう。なので、あまり過信しないで欲しい、そして考えが甘いと思っても私はそれを反論できない。

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あとがき

半年ぶりの投稿になりました。半年前からブログを書かなくなったのは面倒だからと言うより書きたいことがなくなったからです。元々このブログが始まったのも自分の考え(というか不満)を文字にしてまとめたかったからで、書かなくなったのは不満が減ったからかもしれません。

それと、【4,格差のない社会を作るためには】についてはただの一つの意見に過ぎません。繰り返しになりますが、あまり過信しないでくださいね。文系にも理系にも論理という物はありますが、理系の論理は「公理」に乗っ取っているので(あるいはそれを作っているので)正しい物になりますが、文系の論理は「絶対的な公理」という物がありません。皆それぞれ自分が正しい物を「公理」として話を進めるから、論理的なのにトンチンカンなことを言っていることも多いです。だから最近は行動経済学が注目されているのかもしれませんね。

...そういえば、このブログも第一回は「論理」についてでしたっけ。今になってみると懐かしいです。

今日はこれくらいにしておきましょうか。見てくださっている方がいるかは分かりませんが、読んでいただきありがとうございました。

*1:優生学とは違い、存在を否定されたり権利がなかったりするとは限らない。全ての人間に「人権」がある事も多いが、「資本主義」とは関係ない

*2:人口が減れば話が変わるかもしれないが、少なくとも今の人口では全ての人が食料や電気、道具等を満足して手に入れられる余裕はない。そうなれば社会に格差が生まれるのは必然的な事だろう