第6回 優生学と資本主義 ~優生学が優勢になるとき~
【1,優生学とは】
優生学とは「優秀な遺伝子」を選別して生殖を促進することで人類全体の遺伝子の質を向上させようとする思想である。そして、現在では「非人道的な思想」や「間違った思想」であるとされることが多い。間違った思想であるのは否定しないが、全てにおいて「非人道的」であるとは言い切れないと私は思う。
例えば特定の人種や障害者が差別されることは非人道的かもしれない。しかし、「劣った存在」が淘汰され「優秀な存在」が優遇される仕組みは「間違った思想」とはいえないのではないか。
【2,優生学と資本主義の共通点】
よく「人類は平等だ」というが、それはどうだろか?
資本主義は儲けられる人はお金持ちになれるし、儲けられない人は貧困に苦しむかもしれない。これは平等なのだろうか?お金を儲ける力は努力だけでは決まらず、遺伝や環境のようなどうしようも無い物にものにも作用される。そのどうしようも無い物で生活の裕福さが変わる資本主義は「人類は平等である」と言える物ではない*1。かといって共産主義が成立したことがあっただろうか。*2
これらのことから人類が皆平等だというのは絶対に成立しないユートピアであることが分かるだろう。
そして、優生学と資本主義には大きな共通点がある。
それは、それぞれの基準で「優秀な物」が優遇されて、「優秀で無い物」が不遇な扱いを受けることだ。だが私は優生学を正しいとは考えないし、資本主義が間違っているとも思わない。
なぜなら、優生学と資本主義には大きな共通点があるが、それと同時に大きく異なる点もあるからだ。
それは、優秀かを判断する「基準」である。
資本主義は「お金を多く儲けられる人」が優秀とされる。お金というのは様々な要因で物の価値が変動するような社会において、ある程度信頼できる安定した価値を持つ物である。(最も、お金どうしで価値が変動するといえばそうなのだが、給料を米でもらうよりは安定しているだろう)つまり、社会の中での価値が「お金」で判断されることで、その評価がある程度正当性のあるものになる。
一方で、優生学は正当性のある評価を下せるだろうか?遺伝子で優秀な人間を判断できるだろうか?そもそも今の資本主義のシステムで社会的に優秀な人間をある程度評価できるのに、優生学を採用する意味があるのだろうか。
【3,優生学が優勢になるとき】
もし、現代社会で優生学を採用する意味があるとするならば、それは「より正確に社会的な価値を判断するため」ではなく、「『優秀であること』の判断基準を変えるため」であると私は考える。
そして、それを支持する人が増えるのは、現在のルールを変えたい人間、もっと言うと、現在のルールで満足できない人間が増えるとき、つまり不景気の時である。
例えばナチ党が権力を握ったのは世界恐慌の影響だと言う考えがある。
だが、優生学では「格差」がなくなるわけではない。基本的なシステムが同じである以上淘汰される存在は必ず出てくる。格差のはかりである「指標」が変わっているだけにすぎない。
【4,格差のない社会を作るためには】
もしも、「格差のない世界」を望むのであれば、優生学を取り入れるのではなく、人口を減らすことを考えるべきだろう。現在の経済格差の原因の一つは「人口が多すぎること」だ。地球で生産できる物やエネルギーには上限がある。その上限の生産量よりも消費量の方が上回っているから格差が生まれるのだと私は考える。
人口を減らすと言ってもジェノサイドをしろというわけではない。子どもの数を一世帯あたり2人以下にすればいいのだ。とはいえ、少子化と高齢化がセットになっている事も多く、途上国では子どもを産むのを制限するのが難しいこともある。だが、先進国の高齢化は移民をもっと受け入れたり、途上国には先進国が支援をすれば良い。もちろんこんなに簡単にうまくはいかないだろうが、いくらでもやりようはあるのではないだろうか?
不足している生産物には電気やガスも含まれる。人口が減れば必要なガスや電気も減る。ガスは単純にco2の排出が減るし、電気も太陽光や風力だけでまかなえるようになるかもしれない。格差問題だけはなく温暖化まで解決できるかもしれない。
...とまあ、私の考えを述べたが、あくまでこれは素人の考察に過ぎない。計算もしてないし、見つけられていない問題点も沢山あるだろう。なので、あまり過信しないで欲しい、そして考えが甘いと思っても私はそれを反論できない。
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あとがき
半年ぶりの投稿になりました。半年前からブログを書かなくなったのは面倒だからと言うより書きたいことがなくなったからです。元々このブログが始まったのも自分の考え(というか不満)を文字にしてまとめたかったからで、書かなくなったのは不満が減ったからかもしれません。
それと、【4,格差のない社会を作るためには】についてはただの一つの意見に過ぎません。繰り返しになりますが、あまり過信しないでくださいね。文系にも理系にも論理という物はありますが、理系の論理は「公理」に乗っ取っているので(あるいはそれを作っているので)正しい物になりますが、文系の論理は「絶対的な公理」という物がありません。皆それぞれ自分が正しい物を「公理」として話を進めるから、論理的なのにトンチンカンなことを言っていることも多いです。だから最近は行動経済学が注目されているのかもしれませんね。
...そういえば、このブログも第一回は「論理」についてでしたっけ。今になってみると懐かしいです。
今日はこれくらいにしておきましょうか。見てくださっている方がいるかは分かりませんが、読んでいただきありがとうございました。
短編3 人を一番殺した生き物
人間を一番殺している生き物が蚊であることは有名な話だろう。
しかし、あるとき私はこう考えた。殺しているのは蚊ではなく蚊が運んだ病原菌なのではないか?
すると、人間を一番殺している生き物は蚊ではなく病原菌ということになる。
更に考えていると、もう一つ考えが浮かんできた
「そもそも、産まれなければ死ぬことはない。よって、人間を一番殺している生き物は、人間を産んだ人間なのではないか?」
なんだか哲学的な考えになってしまったが、間違っているわけではないだろう。
「人間を一番殺した生き物」は捉え方を一つ変えるだけで蚊にも病原菌にも人間にもなる。
だから、何が一番「正しい」答えであるかはあまり意味を持たない。条件を決めなければ答えはいくらでも出てくる。大事なのはその先だ。
例えば、「人間を一番殺した生き物は蚊である」ことに何の意味があるか、どんな意味を持たせるか考えてみよう。
単純にトリビアとして広まっただけかもしれないが、私はこう考える
「人間を一番殺した生き物は蚊である」
↓
「赤道付近に住む人々は蚊の運ぶ病原菌に対するワクチンを接種できていない」
↓
「募金をしてください」
そう、つまり「宣伝」(プロパガンダ)である。
私は「事実」そのものに意味は無いと思っている。極端な話、人を殺したのが蚊でも人間でもどうでも良い。大切なのはその先にどんなメッセージがあるかどうかを見抜く力だと思っている。
どうやら現代人は論理的に「事実」そのものを導く力を重視しているように感じる。その結果その事実がどういう宣伝効果があるのかを知らずに流される人は多い。
1+1=2が成り立つのは「1の次が2である」と定めたからである。1の次を3にしたり4にしたりしてしまえば1+1は3にも4にもなる。1+1の答えが何であるかはあまり関係ない。1+1が2であるからこそ何なのかを考えなければ1+1は意味のない記号の羅列に過ぎなくなってしまうのではないだろうか?
第5回 マイノリティへの配慮は必要か
まえがき
この記事は最近なにかと話題の「マイノリティ*1への配慮」が必要かどうかについて、あえて否定的に考えるものです。
どうも、この話題に関して否定的な意見を言うのはタブーとされているような気がするので、こういう考え方もあるのだと思っていただけるとありがたいです。
一応警告しておくと、この記事はマイノリティを否定したり批判するつもりは一切ありませんが、その手の話題に敏感な方は記事を読まないほうが良いかもしれません。
それでは早速本題に入ります。
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「マイノリティへの配慮」がなぜ必要なのかというと、差別を無くしたり、マイノリティの人権を守ったりするためだと思われる。
勿論他の考えもあると思うが、今回は仮にそうだと仮定して考えていく。
すると、早速こんな問題が出る。
「マイノリティへの配慮ができない人」については配慮しなくても良いのか?
例えばLGBTを例にして考えてみよう
LGBTとは男か女かの2つに当てはまらない性別を持つ人の事だ。ここでいう性別とは生物的な意味ではなく、意識的なものを指す。
そして、今までは「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という考え方があったが、LGBTが他者から「こうあるべきだ」とされずに自分らしく生きられる為に性別に関するバイアスや差別を無くすべきだという考え方が主流になりつつある。
この思想は確かにLGBTに対する差別が無くなり、LGBTが自信を持って生きていけるようになるかもしれないが、同時に先程の問題がでる。
そう、LGBTに配慮できない人はどうなるのだろうか?LGBTへの差別はなくなるかもしれないが、今度は「LGBTに配慮できない人」が孤立する。「性別に対して固定概念があるのは当たり前。」そんな考え方をする人は差別されても良いのだろうか?
「価値観を変えればいい」
こんな意見が出るかもしれない。しかし、これはとても愚かな意見である。
なぜならこれは、LGBTに対し、「性別は男か女しかないのだと価値観を変えればいい」と言っていることと何が変わるのだろうか?
LGBTという社会的に孤立してしまう少数派を救う為の行動が、またLGBTの代わりの少数派が社会的に孤立するのだ。
誤解されないように言っておくが、私はLGBTを孤立させておくべきだと言っている訳では無い。LGBTを配慮すべきだという意見に反対したい訳でもない。
ただ、今の方法では、また別の少数派が孤立するだけで、何も根本的に解決するわけではないということを言いたいのだ。
では根本的に解決するにはどうするべきか?
それは、民主主義を変えるしかない。民主主義とは多数決が政治を決める思想だ。つまり、民主主義を取れば自然と少数派が孤立する。
民主主義を変えるということは、社会主義や独裁主義になるわけだが、それを国民は望んでいるのだろうか?
私は少なくとも日本は民主主義であるべきだと考える。そして、この問題に対する解決策は「マスメディアや教育機関が中立的になること」であると思う。
根本的に解決しない以上、少数派が不利になるのはどうしようもない。しかし、問題を小さくする方法がある。それは、マスメディアや教育機関等の影響力が大きい者が偏った情報を流さないようにすることである。
そもそもLGBTが孤立してしまった原因は「男はこうあるべき、女はこうあるべき」という固定概念がついてしまったからである。固定概念をつける、つまり価値観を形成させるのは主にメディアと教育機関の仕事だ。それらが「男はこうあるべき、女はこうあるべき」という偏った価値観を植え付けたことで、LGBTは社会的に不利になってしまった。
そして、今のメディアは逆にLGBTを肯定させる方向に偏っているように思える。
「LGBTを肯定するのが正義である」
という固定概念がさらにそれを加速させている。
第二回 「正義」とは ~正義感および価値観のワナ~ - shinya
↑この記事でも話している通り、正義感は国民の意思を統一させることができる。しかし、それは同時に偏った思想にとらわれてしまうことにも繋がりやすい。「LGBT肯定派が正義」で「LGBT批判派が時代遅れの悪」という構図にとらわれないためにもメディアや教育機関側は中立的になるべきだし、国民もメディアリテラシーをしっかり持つべきである。
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あとがき
中立的になるべきだとは言ったものの、現代社会でそれを実行するのは難しいだろう。この記事も、国民がより中立的に考えられるように作った記事だが、マイナーなこの記事を読んで頂けるような人は政治やこの問題に興味がある人だけだろう。ほとんどの人は政治に関して無関心である。そして、それは同時にマスメディアに洗脳されやすいということを指す。国民が政治に興味がないのは個人としては問題ないが、国としては大問題である。かといって国民に強制的に国の事を考えさせても仕方ないから、メディアは国民を洗脳させる。これで民主主義は成り立っているのだろうか?
私はせめて趣味のブログだけでも真の民主主義に向けて情報を発信したい。まあ、それはただの自己満足に過ぎないかもしれないが…
短編2 見抜くべきはデマではなくプロパガンダ
この前ニュースを見ていたらこんなことを聞いた
「デマやフェイクニュースを見抜くメディアリテラシーが重要です。」
これを聞いて、ふと思ったことがある。というか、ふと思い出したといったほうが正確だろうか
というのも、世間一般ではメディアリテラシーというのは「悪いニュースを見抜き、排除すること」を指しているような気がする。そして、その情報が「真実」であり、「嘘」で無いかについて、過度に反応しすぎなように思える。というのも、私は情報が嘘か本当かは正直そこまで重要ではないと思っているのだ。(どうでもいいとまでは言わないが)
それよりも重要視すべきなのは「プロパガンダ*1を見抜く事だと私は思う。というか本来「メディアリテラシー」とはそのことを指す。
デマやフェイクニュースに流されることは確かに問題かもしれないが、最も怖いのは「多くの人がメディアに洗脳されていることに気づかない」ことであると思う。(ただし、プロパガンダが敵であると言いたい訳では無い)
というかそもそもプロパガンダを見抜ける力があるならばデマであれ真実であれニュースに流されることなど無いはずだ。
世間では「ニュースに流されること」を悪としているのに、その原因を「デマ」にするのは少しズレているように思う。というか、マスメディアが意図的にずらしているようにも思える。
仮に、「デマに流されること」が悪であるならば、「正しい」ニュースに流されることは問題ない事になってしまう。しかし問題なのはニュースに「流されること」である。これでは焦点がズレている。というかそもそも「正しい」ニュースだとしても、その伝え方で言うことは180°変わる。デマであれ、正しい情報であれ同じ事はできるのだ。実際、彼らの言う「正しい」ニュースでも「事実を歪めている」としてマスメディアに「悪いニュース」とされることがある。
そもそも事実を歪めずに伝えることは不可能であり、一見歪まずに見えるのは自分の直感通りに歪められているか既に洗脳されているかのどちらかである。
プロパガンダを見抜くことができれば悪いニュースに扇動されることはない。そもそも良いニュース、悪いニュースという考え方が間違えている。ニュースに悪も正義もない。ニュースはただ、「人を動かす為」にある。
現在重要視されている「正しいニュース」を判断する能力は、逆にニュースを「良い」「悪い」で考えることで柔軟な考え方を捨てて、より洗脳されやすくしていると私は考える。
第3回 「民主主義」とは ~平等な選挙か、良質な選挙か。~
民主主義は、国民が主権を持つ政治のことである。国民が国を動かすので、国民の声が届きやすく、日本では独裁政治や社会主義よりも良い方法だとされることが多い。しかし、民主主義にも独裁政治や社会主義のように大きな問題点がある。今回は、そんな見過ごされがちな民主主義の問題点とその対策について考えていく。
【1,国民は政治のプロではない】
当たり前だが、日本国民の全員が政治のプロというわけではない。しかし、民主主義では国民が主権を握っているので、選挙で人を選ばないと政治が成立しない。そのために、メディアがあり、国民は政治家や専門家の情報や、世界のニュースを知ることで正しい判断をできるようにするのだが、メディアも、ただ情報を渡してくるだけではない。彼らはプロパガンダを使って国民を洗脳*1しに来る。それでも国民の多くがが情報リテラシーをしっかり持っていれば問題ないのだが、それは簡単な物ではない。もし、国民の情報リテラシーがしっかりしていないと、マスメディアが実質的に主権を握ることになってしまう。(このままでは日本は将来そうなってしまう可能性が高いとわたしは思う)
【2,必ずしも国民は政治に興味があるとは限らない】
国民の全員が政治に興味があると言ったら嘘になるだろう。しかし、国民の全員が投票の権利を持つというのは国民が政治に関心を持って投票することが前提になっているということだ。そして、情報リテラシーの話に戻るが、関心を持っていないほど人は騙されやすい。「平等な選挙」が必ずしも良い政治につながるとは限らないのだ。
このように、国民全員が主権を持ち、自分で考え、国を動かしていくのには無理がある。選挙は「平等」なだけではいけない。選挙の「質」も重要なのだ。
ここで、明治時代の選挙について考えてみよう
「直接国税15円以上の満25歳以上の男子」
これが、当時選挙権を持っていた国民でである。小中学校で習ったのを覚えている人は多いだろう。そして、そのときはこう習ったはずだ。「当時の政治は国民全員が平等ではなかった。(差別されていた)今は税金や男女に関係なく投票できるようになり、差別がなくなって良くなった」と。
まあ、たしかに平等になり、差別されることは減ったかもしれないが実はこの制度はよく考えられたものだったのだ。一つずつ順に見ていこう。
「直接国税15円以上」
簡潔に言えば、金持ちにしか選挙権がないということだ。一見すると金持ちを優遇しているだけのように見えるかもしれないが、そこまで金があるのならばそれなりに賢く、良い教育も受けており、なにしろ税金をたくさん国に納めているのだから国にも関心がある人が多い。情報に流されやすい人や、政治に関心がない人がカットされるから、質の良い投票になるだろう。しかし、15円以上の税金を納めている人は一部だから、その一部に有利なように事が進むかもしれないし、その一部の人だけの声で国を動かすことを「民主主義」と呼べるかは怪しい。
「25歳以上」
25歳というと、今の選挙権から見れば遅いと感じるかもしれないが、25歳ならばそれなりに社会の中で経験を積んでおり、政治に関する知識やリテラシーもそこそこ備わっているはずである。若者の声が通りにくいという意見もあるかもしれないが、経験が浅く、人の意見に流されやすい人が多い若者にはあえて選挙権を与えないというやりかたもあるのだ。
「男子のみ」
最後にこれだ。ただの差別に見えるかもしれないが、それは現代の価値観で見るからだ。当時の女性は「結婚して家事だけをする」というのが基本であり、政治に関わる女性というのは少なかった。そんな女性に選挙権をあたえても意味がなかったのかもしれない。また、当時は「男が女より偉い」という風潮もあったため、もしかしたら夫に「ここに投票しろ」と言われて自由に投票できないかもしれない。
当時の価値観が良いか悪いかは置いといて、当時からすれば、それなりに合理的な手段だったのだ。
このように、明治時代の政治も悪い物ではないだろう。しかし、一部の人だけに選挙権を与えても、民主主義として成り立つかは微妙なところである。
今の日本に必要な選挙は、平等な選挙か、あるいは良質な選挙か。
世間的には平等さが重視されているが、私は平等さと良質さを、どちらかに偏らせずに両立させることが大切だと思う。
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次回 第4回 「価値とは」 ~価値と洗脳。そして、価値に固執する若者たち~ - shinya (hatenablog.jp)
あとがき
短編を挟んで第三回となりました。話すテーマ的な物はいくつも思いついているんですが、記事を作るのにはなかなか時間がかかります。何回かにわけて書いても良いんですが そうすると、たいていしっくりこないので没になります。
自分の中で思っていることを文字にするって意外と難しいです。頭の中で思っていることが まだ自分の中でまとまってないってのもありますが。
まあ、そもそもこのブログを始めたのは、考えていることをまとめようったからなんですよね。最初は紙に書いていたんですが、紙は訂正が効きにくいので...
それでブログを始めたんですが、人という生き物は欲深いものでアクセス数を気にしだしてみたり...
そのためにタグをつけてみたり、タイトルを工夫してみたり。
扱うテーマについても考えたりしています。まだタイトルだけの下書き記事ですが、哲学的なテーマも保管してあります。テーマが広いとアクセスを拾いやすそうなのでね。
とまあ、最初は考えをまとめるためのノート的なブログでしたが、今は楽しくやっています。あまり長くなるといけないので今回はここまで。
*「こんなテーマも扱ってほしい」「自分はこの記事についてこう思う」等といったコメントもお待ちしています!気軽にコメントをどうぞ。タイトルの下にある「政治」カテゴリをクリックしていただければ他の関連記事も表示されます。よければどうぞ
*1:洗脳といっても怪しい宗教のものではなく、もっと身近なものである
短編1 統一教会とメディアの滑稽な騙し合い
最近、なにかと統一教会のことでうるさい。
マスメディアは統一教会が人を洗脳していると報道するが、マスメディアも「統一教会=悪」と人を洗脳しているのすぎない。
結局統一教会もマスメディアも大きいメディアか小さいメディアかの違いでしかないのだ。
いやいや、統一教会は信者からだまして金をとっているからメディアの方がマシだという人が居るかもしれないが、それは無意味な考え方だ。統一教会側からすればメディアは自分の信じている宗教を理不尽に否定してくる悪の権化そのものだ。
すでに「統一教会=悪」と洗脳されてしまった人に分かりやすく言うならば、「キリスト教の信者だから教会に参拝に行く」ことに対し、「そんな無意味なことを強制させるキリスト教は悪だ」と言っているようなものだろう。信者は無意味だと思ってないし、好きにさせればいいのに。
ダイバーシティーだのなんだのでうるさいが、結局こうなるのだと実感した。多様性を認めるといっても、その目的は「正義対悪」の構図を作って、人を洗脳させるために過ぎない。自分にとって都合の悪いものは否定する。多様性も くそもない。ここまで来ると笑えてくる。
とまあ、ここまで散々メディアを叩いてきたわけだが、一番変わらなければならないのは国民だと私は思う。
そもそも、民主主義、社会主義に関わらず、社会というのは多くの国民を洗脳したものが勝つ。特に、国民が何も知らずにのんきに洗脳されてくれるならなおさらだ。
私は国民にそういう教育*1をもっとさせるべきだと思う。でないと、たとえ統一教会が叩かれて信者がいなくなったとしても、統一教会が別のなにかにすり替わるだけに過ぎない。そのなにかが、何なのか察しがつく国民が増えることを望むばかりだ
↓もう少し詳しく知りたい方、興味を持ってくれた方、堅い話が好きな方はこちらへどうぞ。
ym219zatudan.hatenablog.jp
第二回 「正義」とは ~正義感および価値観のワナ~
正義とは何か?よく聞くのは、「悪」に対する正義だ。あるいは、正義の反対も正義だというくさい表現をされることもある。今回は、「ルールによる正義」と「思想による正義」に分けて分類して考えていく。
まず、「ルールによる正義」は、その名の通り、ルールに従うことを正義とし、ルールに反する者を悪とする考え方だ。これがあることで、本来 利己的である生き物が社会を構築することができる。利己的な本能を全体(社会)を重視するルールで押さえ込むのだ。
これについて、分かりやすい例を挙げると「マスク警察」が挙げられる。これは、新型コロナウイルスが蔓延しているので、外出するときはマスクをつけるという暗黙のルールがあったのだが、これを破りマスクをつけない人に対して、いやがらせをするというものである。
次に、「思想による正義」は、物事に対する考え方による物だ。実はこれもマスク警察で例えられる。今度は、マスクをつけない側の立場で考えてみよう。
マスクをつけないのには理由があるはずだ。マスクを買えないからだとか、マスクをつけるのが嫌だからだとか、色々な理由が考えられる。いずれにせよ、人が起こす行動にはその人なりの理由があり、考え方があるわけで、その人なりの正義なのである。
ところで、人間というのは他者に罰を与えるのが好きな生き物である。例えば、正義が悪を懲らしめるという構図は万人受けしやすく、子供向けのアニメから、大人向けのドラマまで、幅広く扱われる。「正義対正義」という構図も、「正義の反対は悪である」という考え方を「悪」とするだけで、結局は「正義対悪」なのである。
心理実験でも、人は合理的な判断よりも、相手に罰を与える選択を優先することがあるという結果が出ている。このように、「正義対悪」というのは多くの人に受けやすく、人を動かす手段としてとても便利なのだ。
では、次は話を変えて、人が何をもってして「正義」を感じるのかを考えていこう。先ほど「正義」を二つの分けたので、まずは「ルールによる正義」について考えていく。「ルールによる正義」はその名の通り、ルールに従うことで感じる物である。では、ルールは何を元に構成されているのかというと、論理や宗教である。法律などは論理が元になっているし、宗教だと、その宗教のルール(例えば、豚肉は食べていけないなど)が当てはまる。だが、前回述べたように、これらは1を100や1000にするだけで、0から1を作れる物ではないのだ。(例えば、数学なら「1」とは何か、といった「公理」が必要になる。あるものを定義することで初めて論理を練ることができるのだ。)
詳細はこちらから↓
第一回 「論理」とは 〜論理と宗教の共通点〜 - shinya (hatenablog.jp)
しかし、逆に言えば、どのように0から1を作るのかで正義とは何かも変わってくるのだ。多くの人に信用される者がそれをやれば、大衆の正義感を操作できる。それはすなわち、多くの人を動かせるということなのだ。
次に、「思想による正義」だ。思想による正義の根源はその人の思想による物だから、他者に影響される物ではないと考える者もいるかもしれない。
しかし、「思想」をさらに掘り下げていくと「思想」をつくる元になるものは外的要因、つまり、他者による物であることが分かる。例えば、民主主義の日本人は、民主主義を正義として、社会主義や共産主義を悪とする人が多い。もちろん、社会主義派や共産主義派もいるだろうが多くは民主主義派が占めている。一方でロシアや中国に住む人はどうだろうか。多くの人が社会主義派や共産主義派かは分からないが、少なくとも日本よりはそういう思想の人が多いだろう。(そういう国の国民はそう思わざるを得ないという考え方もあるだろうが)向こうからすれば社会主義や共産主義が「正義」で、民主主義が「悪」なのだ。私が言いたいのは「どちらの思想が正しいか」ということではない。
「何が『正義』で、何が『悪』なのかは、その人の置かれた『環境』によって変わるのだ」ということだ。それならば、何が正義で何が悪なのかは答えが出ないから無駄なことのように見えるかもしれないが、正義感というのは社会を構成する上で重要な役割をもっている。
「正義」の大衆を動かしやすいという性質は、多くの人間を1つのもとまりとして機能させるために重要な役割を持っているのだ。
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次回 第3回 「民主主義」とは ~平等な選挙か、良質な選挙か。~ - shinya (hatenablog.jp)
あとがき
今回の記事では色々な場面で使われる「正義」について扱った。
「正義」の心理を使って人を扇動しようとする者は多いが、それが良いか悪いか、ということではなく、それに操作されすぎないことが大事だと思う。「正義」の心理は本文でも述べたとおり社会を構築する上でとても大切だが、多くの人が知らないうちに洗脳される危険性ももっている。知ってて影響されるのか、知らずに影響されるのかでは全然違うので、多くの人にこのことを知ってもらいたい。
まあ、それはかなわぬ夢であるだろうが...
そういえば、私は小学生の時、格差をなくすにはどうしたら良いかを考えたことがあった。その時思いついたのが「給料をすべて一定にする」というものだった。その後その思想は社会主義と呼ばれるもので、その方法の欠点を知ったことで、今は社会主義派ではなくなったのだが、もし私が中国やロシアに生まれていたら社会主義派になっていたかもしれないと、ふと思った。
*「こんなテーマも扱ってほしい」「自分はこの記事についてこう思う」等といったコメントもお待ちしています!気軽にコメントをどうぞ。