shinya

ふと思ったことをまとめていきます。

第一回   「論理」とは 〜論理と宗教の共通点〜

現在、日本では「論理的思考」というものがやたら重要視されている気がする。

センター試験はより論理的思考力をはかれるように共通テストになり、論理的思考能力をはかるためのIQは、時々なぜか賢さのステータスとして扱われる。また、「絶対に正しい物」や「宗教の対義語」として扱われることもある。

今回はそんな「論理」について考えていく。そうすることで、よく相反するものだとされる論理と宗教が、実は同じような物であると分かるのだ。さっそく本題に入ろう。

その前にまず「論理」について、分かりやすいように定義をしておく。ここでは「AならばBである」というものを「論理」とする。ただしそのつながりは合理的でなければならない。例えば、「沖縄の気温は35度であるから暑い」というのは論理にならない。「35度→暑い」というのは合理的な物ではなく感覚的な物だからだ。もしこれを論理にするならばこうする必要がある。

「沖縄の気温は35度であるから暑い(ただし、30度以上の気温を暑いとする)」

これなら論理的な文章になる。このように、論理を作るにはその前提となるルールが必要になる。この例で言うと「30度以上の気温を暑いとする」という部分が必要だということだ。しかし、この前提となる部分はどのようにして決まるのだろうか?

「30度以上の気温は暑い」これに、「なぜ?」という問いを投げるとこうなる。

「人間が暑いと感じる」のは「気温が高いと熱を逃がしにくくなり...」

まあ、簡潔に言えば「人間がそういう仕組みだから」である。ではまた、この結果に問いを投げるとどうなるだろうか。

「人間がそういう仕組みである」のは「そういう仕組みが生き残りやすかったから」であり、これをさらに進めても「人間がそういうものだから」という事実だけが残る。

何が言いたいのかというと、「30度以上の気温を暑いとする」というのは人間の感覚を元に成立していると言うことである。この世の全ての物を論理で説明することはできない。論理を成立させる前提に、必ず定義が必要になるからだ。その定義は、今回の例のように、主に人間の感覚が元になるが、それ以外のときもある。例えば、物理の法則である。

「OOな法則が成り立つ」とき、それは数式で表わされる。その数式の元をたどると、色々な定義が出てくるが、それを根源までさかのぼると、数学の公理にたどりつく。公理というのは「1」とは何か、「+」とは何か、といったものをひとつひとつ決めたものであり、物理の法則が成り立つのは、数とは何か、を「決めたから」である。このように、あらゆる論理は0から1を作ることはできない。1を、100や1000にすることができるだけのものであり、その論理の根源まで遡れば、0から1を作るための「AをBとおく」という操作が行われていると分かるのだ。

しかし、それは宗教も同じであり、宗教では0から1を作るときに、主に「神の存在」を用いる。そして、「神がAだからBである」という論理を使い、1を、100や1000にすることで、大きな影響力を持つことができるのだ。

私は、論理と宗教の違いは0から1を作ることの材料だと思っている。

論理というのは直感的に分かりやすい物が材料になる。例えば、

「30度を寒いとする」こともできるが、多くの人は30度を暑いと感じるので、それで「沖縄は寒い」といっても意味がない。直感的に分かりやすい物を設定しておくことでそれを正しい物だと認識させることができるのだ。

宗教はその逆で、あえて直感に反するものを材料とすることで、それを絶対的な物にすることができる。「神」というのは直感的には分からないので、論理と違って自分の感覚に頼るのは難しい。だからこそ「神」を信じることでしか宗教の中の論理を構成できなくなり、より「神」への信仰が深まるのだ。

このような違いがあるとはいえ、どちらも作られた目的は「大衆を動かすため」であり、それらを使うことで「正しさ」を認識させて、大衆の意見を一致させる(悪く言えば洗脳する)力を持っているのだと思う。

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次回  第二回 「正義」とは  ~正義感および価値観のワナ~ - shinya (hatenablog.jp)

あとがき

例えば最近、統一教会について話題になっているが、今回の記事から、それを取り扱っているメディアも統一教会と同じような物であることが分かる。統一教会を今回の記事の表現で表わすと「宗教」になり、メディアは「論理」である。(ただし、これは日本の場合。独裁国家などではどちらかというと宗教に近くなるだろう。)

統一教会は神のような存在を使うことにより人を動かすが、メディアはニュース番組などのプロパガンダで人を動かす。例えば、「統一教会は人をだましてひどいことをしている」と言うことで、それを見た大衆に「統一教会=悪」というイメージを持たさせることができる。しかし、その行為は統一教会の洗脳と同じ仕組みであり、その事実に多くの人は気づいていない。そう、統一教会に洗脳された人と同じように、多くの人は、統一教会ほどではないにしろ、メディアに少なからず価値観や正義感を操作されていることを知らないのだ。だが、私は統一教会が正義で、メディアが悪だと言いたいわけではない。その逆でもない。

私は、今の日本国民がメディアに影響されるのと、統一教会を信仰することが本質的に同じであると言うことを危険視している。「メディア」は正義で「統一教会」は悪であると本能あるいはメディアの出すデータだけで判断することは統一教会のいうことを、ただ信じることと変わらないのだ。もし「統一教会」のようなものが「メディア」とすり替わっても、多くの人がそれに気づかない可能性があるのだ。これは、民主主義の日本にとってはとてもまずい。だから私は何が正しくて、何が悪なのかではなく、相手(これはメディア、統一教会に限らず、また、善悪に関係なく)がどのようなプロセスでこちらを扇動させようとしているのかを知った上で、それらにいくらか扇動されるような国を作ることが大切だと思っている。そのために最も力を入れるべきなのは教育だ。教育は、ただ知識を詰め込むだけでなく、価値観を形成するのにも役立つ。だからこそ、教育は大きな影響力を持っているのだと思う。

そして、論理とは何かが分かると、その延長で「正義」とは何か、さらには価値観はどのようにしてできるのかが見えてくる。そうすることで この社会を違った角度で見ることができる。そこで今回は後書きとして分かりやすい例を出すために統一教会の例を出した。次回は今回の話である「論理」とは何かの続きとなる「正義」とは何かについて考えていく。

 

 

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